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スプリームマスターチンハイ(ビーガン)が語る肉の有害な影響パート16―聖人たちの教えの歪曲

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前のエピソードで 述べたように すべての 悟りを開いた聖人と マスターたちは 愛と思いやりの具現化 であるため 「殺生しない」という 同じ原則を教えています しかし崇拝される 釈迦牟尼仏は 「豚足」と呼ばれる種類の 食べ物を食べたことが 仏典に記録されています 聖書には 主イエス キリストが 5000人に 5斤のパンと2匹の魚を 与えたと書かれています 何千年もかけて 一つの言語から 別の言語へ翻訳される中で 古代の聖典に いくつかの誤解が 生じたのかもしれません 多くの啓発的な講義の中で スプリームマスター チンハイはこれらの偉大な 聖人と預言者の食事に 関する 一般的な誤解を 解明するのを助けました

イタリアには 豚の喜ぶ キノコがあります 覚えていますか トリュフです 地面の下に 隠れていて豚はいつも それを掘って食べます 豚は嗅ぎつけると 足でそれを掘るので それで人々はついて行って キノコを掘り出して 売るのです それらは非常に高価です それで仏陀はそれを食べ もちろん ごちそうにと 供養されたのです それでこう呼びます 「豚の喜び」とか「豚の足」と そういう由来で 豚が人々のために それを嗅ぎ付け 掘り出せるからです ですから仏陀 哀れな仏陀は 豚肉を食べたのではなく 大きい「豚の足」を食べたの です やれ やれ

(イエスは菜食主義者でしたか) あわれなイエス 誰もが主の口に肉や 魚を入れようとします 彼は純粋な菜食主義者です 彼はエッセネ派の伝統から 来ており エッセネ派は 常に菜食主義者です そしてハンガリー人の エドモンド・ボルドー・ セーケイによるアラム語から 翻訳された本があります バチカンのアーカイブで 見つかった 古い書から それはイエスの教えである と信じられています その中でイエスは弟子達に 動物の肉を全く食べては ならないと 指示されました 完全に さて現在の聖書は 古代ギリシャ語版から 翻訳されています (OK) イエスは大衆にパンの塊と オプサルムを与えました オプサルムは調味料 (そうです)薬味または魚 として翻訳することができ それで彼は人々に パンとそれに伴う調味料を 与えたと言うことが できます (そうですね)

もし主が魚を食べるとしたら なぜ彼は最初の12人の 弟子たちに魚釣りをやめて 代わりに人を釣るために 従うように言うのでしょう 彼に従うということは何も ないということです(はい)

他人の弱くて怪我をした 子羊を丘の上まで運び 子羊が羊飼いに 殴られたり 蹴られたり 引きずられたり しないようにした イエスのような 思いやりのあるマスターに どうして生き物が 食べられるのでしょう? それは少し 矛盾するでしょう

たいてい これらの文書は 全て死海文書の中で 見つかったものです 人々がそんなに昔ではなく 何年か前に発見したものです 人々は全てこれらの大いなる 教理を発見したのです イエスはこの宗派に属して いました 「全ての生き物への 深遠なる尊重の思いから 彼らは決して肉に 触れませんでした…」 彼らは肉を食べなかった 今生の全てのエッセネ派の 人もこれを読んで 肉を 食べないでいて欲しいです 「また彼らは発酵した液体を 飲んだりしませんでした」 酒を飲まなかったという 意味です ほらね そうです

気の毒な預言者やマスター達 のことを考えていました 彼らは生きていた時 攻撃され 迫害され 中傷され 様々な残酷な 方法で殺されました 彼らの死後 大教会や大寺院や モスクなどが 建てられました その後も キリストは魚を食べた 仏陀は豚足を食べた 預言者ムハンマドは 人殺しを命じたと 言って侮辱しています 何でもします とても悲しいです こうした全てを あらゆる生き物に とても思いやり深く 慈悲深く寛大だった 偉大なるマスターの 名において行うのです 小鳥や 子羊ですら 彼らは愛していました どうしてわざわざ人に 殺害を命じたりするでしょう それで預言者達はみな 山ほど誤解されて きたのです

釈迦牟尼仏は首楞厳経で 「我々 霊的修行者が 衆生の肉を食べるならば 我々が達成できる 最高のレベルは魔の レベルである」と述べました 肉を食べると魔になる と言うわけではありません 私たちの内面のレベルと 鈍感さのせいで 私たちに値するレベルが 魔のレベルであると言うだけ (ビーガン)であることが 人を仏陀にし 肉を食べると魔になる と言うわけではありません ある人が衆生の肉を 楽しむことができるなら それはつまり彼の 内面の愛情が足りておらず それゆえに 肉を食べても幸せに 暮らし続けることができ 内面で彼の仏性を 十分に発達させることが できないのです 彼の仏性が十分に 発達していれば もちろん肉を 見るだけで苦しみを 感じるでしょう 彼は衆生の苦しみを 感じるので 肉を食べる などもってのほかであり 肉を食べたがりません

私達はアッラーの子として ふさわしく生きねば なりません アッラーが私たちの 惑星に来たとしたら 彼は何をするでしょう? アッラーがここに来て 自身の体を多かれ少なかれ 百年生かし続けるために すべての生き物を殺すのを 想像してみてください アッラーはそうしますか? そうしますか マダム? (いいえ マスター)しません 神または全能のアッラーが ここに来て 食べるために 全ての小さく無実で無力で 無防備な愛情深い生き物を 殺すとは想像できません 私たちは神の子供です すべての預言者はそれを 教えています イエスはそう言いました 仏陀はそう言いました 預言者ムハンマド 彼に平安あれ は私たちにそう言いました 私たちは慈悲深い父の 子供たちです 父のようになるべきです これは非常に論理的です それは父を喜ばせるはずー 私たちが彼のようであり 慈悲深くなり 思いやりを持って 互いに調和している事は 彼を喜ばせます すべての父親は子供がそう なることを望んでいます ですからアッラーの子供 神の子供たちにふさわしく なるためには 私達の父が 私達に望んでおられる ように生きねばなりません

本当の出家者は 解脱できます 戒律をよく守り 一日一食だけで 絹を身につけず 牛乳やどんな動物性 製品も摂取せず 歩く時は昆虫を 傷つけない為に 足下を見て 本当に仏陀の教えや 戒律を聞く人は 解脱できます 三界を超えられますが 必ずしも第五界はないです 仏教徒は 第四界に達する人の 数が最も多く 恐らく菜食か ビーガンのおかげです ヒンズー教徒もいました ヒンズー教です その二つの宗教が 最も沢山いました 他の宗教でも何人かいます

私のリトリート中に 偶然多くの事を見ました だから本当に菜食か ビーガンで戒律を守る 人達は解脱することが 分ったのです 僧や尼僧だけ 確認しました 在家者は確認してません 僧や尼僧にとって 確実により簡単です 心配事も 障害から 自由だからです 誰とも何の 繋がりがありません 人々の周りをうろつきません だから自身の磁場を 清浄に保ち 菜食/ビーガンを守る ことがより簡単なのです

なぜインド人は 他の人々よりも深く 開悟しているのでしょうか 自分でも考えてみました それで答えを得ました 神が私に言いました 「彼らは 彼らが教えている 事を実践しているからだ 彼らは不殺生を実践し 菜食を実践しているのだ 祈りを実践し 瞑想の実践をしているのだ 全衆生が同一体であると 常に覚醒している 修行をしているのだ 一人に為されている事は 他全員に為されているのだ」と それで 私は言いました 「ありがとうございます」 誠心誠意に疑問を持つ時 神は常に答えてくれます これこそがヒンズー教 そのものであり この 母なる大地の哲学であり そこに帰結するのです

多くの偉大な師が インドに来て この母なる 大地に礼拝し 彼ら自身の 智慧を発達させるべく 幾らかの知識を請わねば なりませんでした イエスはここにいました 仏陀はここにいました 他多くの偉大なる師が この地に誕生しました シーク教やヒンズー教の グルのようにです 世紀を超えてです 彼らは全てを犠牲にして 不殺生の この高貴な理想 慈悲を 私達に喚起してきました というのは 神は愛だからで 私達が神になりたければ 私達は愛の代表に ならねばなりません
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